その1「エヴァンゲリオンとわたし」

 わたしがはじめて「元祖世界系」と呼ばれるエヴァンゲリオンを見たのは、ハタチの頃でした。当時から付き合っていた恋人がこのエヴァンゲリオンが大好きで、まさにオタク第三世代の男で、そんな恋人に半ば無理やり、TSUTAYAでDVDを全巻借り切って見せられた、というのがはじまりでした。
 それまでのわたしにとってのエヴァンゲリオンは、わたしが中学生の頃に一大ブームを巻き起こしたアニメで、でもその当時のわたしは、色恋沙汰や化粧やおしゃれに現を抜かしており、もちろんアニメなんてまともに見ているのは格好悪いと思う年頃だったので、わたしは、名前だけは知っているけれど…、という程度の知識しか持ち合わせていなかったのです。


 わたしは、見ました。テレビ版も映画版も全部。恍惚の声を上げる男の隣で、内容はそっちのけでひたすら解説を続ける男の隣で(真冬で、暖房器具のない部屋で、布団にくるまりながら)。
 そして、わたしはひたすらに憤りを感じました。
 このアニメはただ、自分の寂しさや孤独、叫びをアニメにしてしまいました、というもので、確かにこの叫びのみをエネルギーにしてこれだけのアニメをつくってしまうことには驚きましたが、でも、自分の内側にあるものを切り取っているだけだから、終盤はグダグダ、不安定で、「エンターテインメント」であるアニメとは呼べないと思ったのです。
 こういうものをつくる人というのは、「自分」というものはたしかに必要ですが、その「自分」を切り取りながらものをつくっていると、いつか、必ず枯渇してしまうと思うのです。「自分」ありきで別のものをつくることができなければ、(もちろん、「自分」を切り取ってものをつくる方が深い共感は呼べますが)ただのマスターベーションになってしまうし、しかもこの「自分」はとても不安定なもので、「自分」が満たされている時、そして、「自分」のことをうまく説明できなくなった時にはもう、何もつくれなくなってしまうのではないでしょうか。このエヴァンゲリオンの終盤だって、そういう状態になってしまったからこそ、ここまでグダグダ(それ以外に言い表しようがないほど)になってしまっているのではないでしょうか。
 さらに、このエヴァンゲリオンにもロボットや可愛い女の子がきちんと登場しますが、この「自分」を切り取るエネルギーを最優先させたが故に、ただのおまけ要素に成り下がってしまっているとも思えるのです。
 ガンダムも同じく、わたしは恋人に見せられたことがあるのですが、ガンダムはまずロボットありき、でつくり上げられているため、わたしにはあまり楽しめる要素がありませんでした。その点、エヴァンゲリオンはそういったロボットや可愛い女の子はおまけとなっているため、そういったものに興味がないわたしでも見ることができる、という点は良いと思います。しかし、これを逆に言ってしまえば、ただ、中途半端で、この「人間」もしくは「世界」以外にはまれる要素が何もなく、もっと言えば、「なぜこれをつくるのにアニメを選んだのかよくわからない」と言えてしまうと思うのです。アニメ、映像は目も耳もびっしりつかって訴えることができる唯一の手段で、こういった類の訴えをもっとも大きく見る側に伝えられる手段であるというのに。


 そして、何よりわたしを憤らせたのは、このアニメがなぜこんなにも一大ブームになってしまったのか、ということです。
 このアニメを見たことで、わたしの恋人は「浸ること」が好きになって、なかなか前に進まなくなった、と言います。自分の中にあった寂しさや孤独、叫びだしたいほどの感情をはじめてアニメを通して公言してくれたことにより、こんな感情を持つ自分を許してもらえた気がする、と言うのです(だからこそ大切だ、とも言っていますが)。
 このブームにより、たくさんの人がエヴァンゲリオンを見て、みんなわたしの恋人のように感じたのかもしれない。そう思うと、この「世界」を全肯定してしまうこのエヴァンゲリオンはひどいと思うのです。このような方法の全肯定は、本当に何もできなくなってしまうのに。それは冷静になってみればよくわかるだろうに。
 恋人は言います。「この許してもらえた感じはもうずっと頭の中に残っている」と。
 わたしは、それが、本当に腹立たしくて仕様がないです。