好く熟れてる無花果を

たとえば、目の前にひとつのものをつくりあげることよりも、目の前にあるひとつのものを壊してしまう方が幾ばくか、かんたんで。やっぱり人間、どうしてもそんなかんたんなものの方に傾いてしまうもので。それはもう、宿命ですよ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。
でも、相手が人間であれば話は別で、人をけなしたりばかにしたり、そうやってかんたんな方へかんたんな方へと流れれば流れるほど、気づけば自分がそういう立場に立ってしまったり、何より、自分がものすごく孤独になってしまったりするよなぁ、とつい思ってしまう人が、いる。


ちゃんと仕事をしていて、ちゃんとした身なりをしているのに、仕事中はずっと、大きな声のひとりごとを本当にずっとしゃべり続けていて、たまに、誰か好きな人に話しかけられるとその声はさらに大きくなる。大きな声のひとりごとを話している間、その人はずっと眉間に皺を寄せて、「チッ」なんて何度も何度も舌打ちをするのだけれど、誰か好きな人に話しかけられるとすごく笑顔で、顔を真っ赤にして、あきらかに嬉しそう。
でも、別に好きじゃない人に話しかけられると、ものすごくぶっきらぼうで、顔もどちらかと言うと怖い方だから、ずっと怖く見えていて、どうしても、「嫌われているのかなぁ」と思わせている、と思う、んだけれど、その人が気づいているかどうかはわからない。
気づいているかどうかわからない、と言えば、わたしはこの人を見ると、どうしても「さみしいのかもしれないなぁ」と思っていることで、この話は誰にもしたことはないけれど、誰かにされたことは何度もある。
きっと、この人は不器用なんだろうなぁ、とは思うけれど、きっと、本当にかんたんな方に流れ流れてこうなってきたんだ、と思えてしょうがない。きっといろんな差別をしてここまできているんだろう、と思えてしょうがない。この人はそういう態度の人で。


どうしても、さみしくなる。この人を見ていると。
そう言ってしまうのは、その人に対してものすごくひどいことなんだとは思うんだけれど、ぼんやりしていると、そういう方向へどんどん吸い込まれていってしまうような気がする。
ただ、この人が悪いんだ、とかそういうことじゃなくって。差別はいけない、だとか人をばかにしちゃいけない、だとか言い聞かされながら育ってきたわたしに、「そんなのは幻想なんですよ。」って突きつけられているような気がしてしまうんだ。何かを話している拍子に、「だって、自分とそれ以外の差別をしなくちゃ、生きていけないですから。そういう差別をして、その順番決めなきゃごはんも食べられないですから。」とか、平然と言われてしまいそうな気がするんだ。


あー。そうか。さみしいんじゃなくて、怖いんだ。わたしは。