眠れぬ夜に朝はくるのかい?

onisan-tarosan2006-01-08


新年早々風邪をひいた、みたいで。
今日は1日おとなしく布団の中で、眠ったり起きたりの繰り返し。
おかげで、少しだけのどの痛みはやわらいだものの、日中散々眠り呆けていたせいで、けっきょく、1番眠っておくべき時に眠れなくなった。というこの悪循環。


最後に目が覚めた時、ずっとつけっぱなしにしていたFMから三代目魚武濱田成夫が変なテンションでしゃべりつづける声が聞こえた。
わたしはこの人についてはまったくといって良いほどに何も知らないし、唯一知っていることと言えば学校の本屋でこの人の本がずっと平積みにされていることくらいで、なんだこのおっさんは、って、正直、ずいぶん鼻についた。きっと心打たれる詩の一篇でも知っていれば聞こえ方も違ったんだろうけれど、少なくとも、聞こえてきたこの人の数篇の詩の朗読の中で、打たれたものはほんの一篇もなかった。ライブには少し、興味惹かれたけれど。
学校の先生も彼については何も教えてはくれない。というより、過去の偉人ばかりに肩入れをして、現実に生きている人については先生はほとんど興味がないようで。そんな声を直に聞いて無意識に生きているわたしには、すっかりそんな声に洗脳されていて、あぁ教育って恐ろしい、ってこんな時に自覚する。
おかげさまで、こういう突発的なできごとに、素直に関心を寄せることができない。


そんなこんなですっかり目が覚めてしまって、テレビをつけたらやっていた「肉体の門 [DVD]」を見ながら、ひとりでつくったおかゆを食べて、日本映画に想いを馳せる。
敗戦直後の「戦後民主主義映画」と呼ばれるもの、ではなかったのだけれど、そんな設定で、でも製作年は1988年。しらべてみたら「一世を風靡した田村泰次郎の原作の5度目の映画化」とあった。かたせ梨乃と名取裕子があまりにきれいで惚れ惚れしたし、前に見た戦後すぐにつくられた映画よりもずっとしゃんとしていて整っていておもしろかった。けれど、もっとギラギラしていてほしいと思ったし、もっとぐちゃぐちゃになっていてほしいと思った。どうせなら。平和ボケしたわたしみたいなのにはこれはじゅうぶんなものであるのだろうけれど、本当はもっとずっと切羽詰ってたんでしょう?それならそうとがつんと言ってよ。と、勝手な願望。
少しだけ、レポートのために日本映画の歴史を調べてみて思ったことは、大島渚を見てみたいと思ったこと。それから、ちゃんと小津安二郎を全部見てみたいと思ったこと。どれもこれも教育のおかげ。きっかけ作りには本当に大いに役立つ。


もうすぐ「学生」というカテゴリから抜け出す(予定の)わたしからすると、勉強することは、たしかに生きるために必要なことではないし、あんまり生きるのに役には立たない。でも、勉強していろんなことを知る中で糧とか欲とかが生まれて、だからこそ楽しかったり苦しかったりの充実した毎日が得られるんだろうなぁ、と思う。そういうきっかけを、求めても求めなくてもなんでもかんでも与えてもらうことができる、ということは、本当にすごく恵まれていることなんだと思うよ。
勉強はわたしにとって面倒なことだったけれど、その面倒を放り出さずにそれなりにやってきたおかげで、いろんなことを見ることができて考えることができて、ちゃんと今につながっているんだなぁ、と今実感した。


言いたいことといえば、面倒でもぐっと踏みとどまった方が良いことあるよね、っていう結論めいたことと、これから「学生」じゃなくなったら自分から乗り出していかなきゃ何も得られなくなるんだよね、っていう不安がほんの少し。
別にそんなに主張したいわけではないんだけれど。