煮えたかどうだか食べてみろ

onisan-tarosan2006-01-31


いまだ無職で、学校も終わってしまって、時間がたんまりあって、あれもできるしこれもできるのに、何もできない。胸がいっぱいで、何より時間がやたらと重い。感覚もずいぶん麻痺してきている(気がする)。ずるずる時間に引きずりこまれているこの感じ。いやんなる。


流されることを受け入れられないわたしは、流されている恋人を見ていると絶望に近いものを感じる。でも、それがわたしにとってはすべてじゃない。大部分であったとしても。
こういう風にわたしがどんどんめちゃくちゃになっていくのに付随するように関係が悪化するのはきっと、こういう空気に流されている恋人がいるからだということは明確で、だからこそはやく開放してあげなくちゃと思うのだけれど、果たして、この選択が良いものなのかそうでないのか。
流される、ということを思うとどうしてもNANAを思い出すのだけれど、ハチは幸せなのかどうなのか、わたしなら絶対にこんな選択はしない、ということを選択し続けているので、わたしには皆目見当がつかない。同じように、恋人が流されていることがわからない。こういうものが人生だ、人は皆こんな後悔を抱えて生きるんだ、と言われてしまえば、後悔しないことを目標に生きているわたしはいったいどうすれば良いんだろう。すべては幻想?それとも虚構?
本当は流されているのではなく、ハチであれ恋人であれ、ちゃんと決断していることなのか。それに納得がいけばこの決断にすんなり納得がいくのかもしれないけれど、すべては人事、闇の中。こんなの、たられば話にしかすぎない。
こんな妄想話を延々考えるくらいなら、ずいぶん鈍感になってしまった喜怒哀楽と少しの孤独で決められれば良いのに。


本当は手放したくない。後悔するのもわかってる。
でも、もうわかんない。

おぼえがき

onisan-tarosan2006-01-30


「お前はいい子すぎるからうまく立てないんだ」
「だってお前、立ってるだけで精一杯て感じやもん」
「今にも倒れそうで、心配でたまらない」
「誰かにちょっとしたことを手助けすることは思いついてもお前を助けてやれることは何も思いつけなかった」


そういうことばを投げかけてくれる人はなかなかいなくてだからこそ、こんな言葉でも投げかけてくれることがとてもとても嬉しい。もしかしたら、そう言わせてしまうことはすごくすごくかなしいことなのかもしれないけれど。
それでもいつかは忘れてしまうのだろうからちゃんと振り返れるように、おぼえ書く。

恐いから離れられないだけなんだ

onisan-tarosan2006-01-29


本当はどうしたら良いものなのか、いまだに決められない。
揺れ動きつまづいて、涙ばかりで笑えなくて、それならいっそ、楽に今だけみつめて生きれば良いのに、なんてことを考えるくせに、今すら恐くて見られない。誰のせいだとかそんなことはどうでも良いのだけれど、できることならば、全部をわたしのせいにしてしまえと言い放ってしまいたくもある。とにかく辛いんだとかこの方が良いからだとかいろんなことを言ってみるけれど、1番しっくりくることは、わたしなんかと一緒にいない方が良いんだよ、ということばで、こんなにたいせつなことに対してですら、偽善者ヅラをしていると思われてもしょうがないことを考えている自分にうんざりする。本当はどうなの?と問い詰めたくてしょうがない。
未来は不確かで不透明で想像はできても実際に見ることができないからこわい。きっとその程度のことくらいしか考えられていないのだろうけれど。


ただ、今ほしいものは何か確かなもので今それでいっぱいに満たすことができれば、もしかしたら満足するのかもしれない。でも、そうであったとしてもきっと、また同じように自分に舞い戻ってしまうことは目に見えているから、そうしてほしいとは伝えられない。
だって、本当にすべては自分が悪いんだと思うんだ。自分の視界の広さ、信じる力、思いやる心、そういうすごく人間くさいものがどんどん欠落していっているんだと思うんだ。その事実を実感することがこわくてこわくてしょうがなくて、だから、すべてを投げ捨てようとしているんだと思うんだ。できるだけ何も感じなくてすむようにできるだけ何も考えないですむように自分を楽にするために。
自分勝手。くやしい。後悔することはわかりきっているのに。


直感だけで生きていきたい。脳みそなんかどっかいっちゃえ。

いちたすいちは

onisan-tarosan2006-01-28


広い広いところでは、人間ひとりの力っていうのはものすごくちっぽけであるのかないのかよくわからないものだけど、そこにもうひとりの人が加わると、倍どころか以上の力になるよなぁ、ということをよく思う。
たとえば、何かをはじめようとした時。ひとりではじめるにはまず下調べして準備して行ってはじめて始められるのに、その何かを知っている人が身近にいれば、下調べも準備もなしに、別にはじめるつもりがなかったとしても、知らない間にはじめることができてしまう。だとか。何かについて考えている時。ひとりではぐるぐるぐるぐる考えが堂々巡りしてしまうことが多いけれど、誰かに聞いてもらいながら一緒に考えると、すんなり結論が出てしまったりする。だとか。
そして、そういう困ったことがあってもなくても望んでいても望んでいなくても何かしら人間同士、出会ってしまうもので、それを縁と呼ぶもので。そういう縁に助けられて人間ていうものは大きくなったり成長したり学んだり悩んだり喜んだり悲しんだり苦しんだりするんだろう。きっと、そんな縁がなければ、もしかしたら何もできないままか、何もする気が起きないままか、何も言えないようなことになってしまうんじゃないだろか。
これは、意識していなければなんてことないけれどなんとなく意識すると不思議で、それこそ奇跡と呼んでも良いことだってあると思う。どんな出会いであれ。
それはあんまりにも当たり前で、あんまりにも儚い。
消し去ろうと思えばかんたんにできる。それぞれの人の記憶以外は。


わたしは、そういう出会いを最近、そんな縁をどこか軽く見ている気がする。自分が傷つかないために、バッサバッサと切り捨てていっているような気がする。やだな、こんなの。ちゃんと、普通に、感謝できるようになりたい。
て、けっきょく自分の話。

ピアスしても良いじゃない女の子だもん

onisan-tarosan2006-01-19


わたしの耳には穴が5つあいていて。右に2つ、左に3つ、全部高校生の頃にあけた。でも、山ほど集めたピアスの収納場所に困って(ついでに収納方法にも困って)、いつもぐちゃぐちゃにアリエルの缶カンの中に入っているもんだから、5つも出すのが面倒で、あんまり、この穴をふさぐことはない。
この間までの数ヵ月間もまた、例によって、穴はふさがれず、ずっとスースーしていたのだけど(いや、実際には穴があいていることすら忘れていたのだけど)、もう、本当に長い間、ふさがれていなかったもんだから、もしかしたら、もうすでに、わたしの肉でふさがれてしまっているかもしれない、そう思っていて。
今日、一度それをたしかめてみようと、ピアスを5つ、取り出して、少し勇気を出してふさいでみたら、思った以上にすんなりと、すごく、自然に入ってしまった。


久しぶりに耳に違和感ができて、それに感動して、なんだか少し新鮮な気分で、ひとりで声に出して「おー。」だとか感嘆の声を上げていたら、だんだんピアスをあけた頃のことを思い出してきて、ちょっとしたセンチメンタル。
たとえば、親にばれないために1ヵ月くらい、不自然なまでに耳を隠していたことだとか、校則の厳しい学校で、透明ピアスでも怒られるから洋服のタグつなぐやつで穴をふさいでいたことだとか、穴をあける場所に不満があって、何ヵ月もかけてあけなおしたことだとか、それに付随するあれやらこれやら。そうして、あの頃はどうだったああだったと考えて、今、こうやってまだ穴をふさぐことができることに軽く安堵。そして喜び。
何年も何年も自分の身体に身についていた(もしくは欠けていた)ものだから、それはちゃんと残っていて、それはちゃんと繋がっていて。少し、不思議には思うけれど、やっぱり少し、センチメンタル。
ピアスをあけると運命がかわるとか言うけれど、わたしはそんなことを感じたことはあまりなくて。ただ、ずっと自分に残る証が残せて、たまに、その時のうれしい気持ちだとかを思い出せる機会が持てて、そういうのがなんだか良いなぁ、と少し、思う。

眠れぬ夜に朝はくるのかい?

onisan-tarosan2006-01-08


新年早々風邪をひいた、みたいで。
今日は1日おとなしく布団の中で、眠ったり起きたりの繰り返し。
おかげで、少しだけのどの痛みはやわらいだものの、日中散々眠り呆けていたせいで、けっきょく、1番眠っておくべき時に眠れなくなった。というこの悪循環。

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